コラム001「チェルノブイリ・アントについての私見」

 

先月発行された「フライフィッシャー(2003年1月号)」で、フォーム・フライが特集されていた。ずいぶん季節外れな企画だとは思ったけれど、フォーム・フライは、いまや私にとっても欠かすことのできないパターンとしてボックスの一角を占めるようになっているので、興味深く読ませてもらった。

中心になっていたのは、やはりチェルノブイリ・アントだった。フォーム・フライの中でももっとも知られたパターンといっていいだろう。その記事の中にチェルノブイリが「魚には虫に見えていない」という記述や、チェルノブイリを使うことで「マッチング・ザ・ハッチやマッチング・ザ・ベイトだけではないことに気づく」という記述を見つけて驚いた。私の考えと正反対だったからである。

世の中は広いから、人間はさまざまな経験をする一方で、ひとりがすべてを経験することもできない。だから自分の限られた経験に基づいていうのだが、チェルノブイリはいまや代表的なテレストリアル・フライのひとつだと私は思っている。それはなにより、陸棲昆虫たちが活発になる夏を中心にした季節にもっとも効果が上がる、という経験をしているからだ。もちろん、早春でも釣れることはあるだろう。しかし、夏のように、魚が憑かれたようにフライに近づき、気味が悪いほどに釣れてしまう、という経験は私にはない。

石油化学が生み出すフォームという素材が形作る外観は、天然の素材で作られたフライを見慣れた目にはかなり異様に映る。しかし、マスが人間ほど細かい識別力・識別点を持っているとは、私には思えない。せいぜい全体のヴォリュームと形、水面との絡み方、動き、あとは色くらいのものだろう。

水生昆虫が、きれいに大きさや形の揃ったものが、比較的高い密度で流下する機会が多いのに対して、陸棲昆虫の方は、平均すれば大きいけれども、ヴォリュームも形もさまざまなものが、朝から夕方まで疎らに、イレギュラーに流れてくるという状況が一般的である。色にしたって、陸棲昆虫にはばらつきがある。そういう観点からすれば、チェルノブイリは十分なテレストリアルらしさを備えている。

もともとフライの色は、全体が大雑把に似ていれば結果がついてくることが多い。細かな模様など、いちいち魚たちが、小さな脳味噌で識別するなどとは到底思えない。人間というのは、相手をつい自分と同じに考えるものなのか、人間が見たときに本物と間違えそうかどうかという点を基準にしたフライが、いままでにいくつも作り出されてきた。

たとえばポール・ジョーゲンセンのフライや田代パターンのように、外観を種ごとに事細かく似せようとすることに、私はナンセンスさしか見出すことができない。私は外観主義のリアリズムなどとっくの昔に捨ててしまった。実際にある特定の餌を偏食気味にしている魚に特に効果が認められたときに、そのフライを○○マッチャーとして個人的に認定するようにしている。実践でのトライ&エラーとそこからのフィードバック。それしか信じない、いや、信じられなくなってしまった、いわば経験主義である。

ところで、チェルノブイリにはラバーレッグがついている。これが魚を誘うという点で異論を持つ人は少ないのではないだろうか。足が動く=生きている、と魚は認識するのだろう。マスは死んだ餌も食べるが、生きていないということは異物である可能性も高まる。それに対して生きているものはほとんどが餌である。また、生きていれば動く、つまりかわされたり逃げたりすることもあるわけだから、すばやく対応しないと食いそびれる可能性があるわけだ。部分であっても全体であっても「動く」ということが、ときに魚を強く惹きつける理由はここにあるのではないだろうか。まあ、この部分は私のまったくの推測に過ぎないから、読み流していただいてもかまわない。

とまれ、アトラクターというフライの分類方法があって、一方にハッチ・マッチャー(正確にはベイト・マッチャー)というようなジャンルがある。しかしこれは、このフライはアトラクターだからベイト・マッチャーにあてはまらない、ということではない。アトラクターと呼ばれるフライであってもベイト・マッチャーになりえるし、アトラクターの要素をもったベイト・マッチャーや、ベイト・マッチャーにもなるアトラクターこそ、応用範囲の広い優秀なパターンになれるのだと思っている。そういう意味でも、チェルノブイリ・アントはいいテレストリアル・パターンだと思う。(2002.12.08)

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