コラム002「硬直すると、ろくなことはない(男性の一部分を除く)

 

  昨秋、扇国土交通大臣が、揉めた末にようやく出てきた道路民営化委員会の答申をそのまま受け入れるのに難色を示す発言をしているのを、テレビのニュースで見た。そのなかで、役所の意向が云々、それを無視して法案を作って国会を通るのか云々という発言があった。

  この「役所の意向」ってなんだ。公僕の集団がどうして意向を持つのだろうか。百歩譲って、それがバックにいる国会議員の意向で、国会通過のための議会内の一種のコンセンサスを反映するものだとしても、それが表に出て議論されなければ、連綿と繰り返されてきた密室政治が続いていくだけではないのか。いままでのやり方を変えようとするために道路民営化委員会はできたはずなのに、「意向」を反映するための、国民に見えない、旧態依然とした決定プロセスを繰り返していても何も変わらないことはあきらかだ。現在の政治システムは、百年の大計どころか「五十年の中計」を立てることさえ不可能だということを、この五十年の間に証明してきたのではないか。票を得るために、選挙民の目先の意向で方向が決まり、一度方向が定まると柔軟さを失って硬直してしまう。責任の所在があいまいで、誰もリーダーシップを発揮できない。

  役所の「硬直した意向」はなにをしてきたか。作り出したら止まらなくなってしまったダム、川をコンクリート水路化しようとする三面護岸、目先の経済効率だけを考えた大面積皆伐造林、などなど。机の上で考えられた理屈が、いかに薄っぺらなものだったか。それが万事に通用するなどと信じた愚かさよ。自然がそんなに単純でないことは、自然を相手に仕事や遊びをしている人の方がよほどよく理解しているのではないか。

 「硬直した意向」はダムに溜まる砂の量を予測できなかったし、日本列島の砂浜を後退させた。老朽化の計算も狂い、いずれあちこちに危険建造物が潜在化するようになる。

 「硬直した意向」は陸水全体や浄化作用など無視して多くの川を塗り固め、生物を遠ざけた。それに気づいて、こんどは元に戻そうという。これを無駄遣いといわずしてなんといおう。元に戻すのはいい、しかしこの壮大な無駄遣いの責任はどこへいったのか。

 「硬直した意向」は森の本来あるべき生態を壊し、生物相を単純化した。花粉症の蔓延を予想できず、多くの人に来るはずだった「麗らかな春」を「憂鬱な春」に変えた。

  人間は神ではない。人間は間違いを犯す動物だ。人間に絶対はない。いつでも過ちを認めて、修正したり、受け入れたりする柔軟さを、すべての人が持ち合わせていたらどんなにいいだろうか。そうすれば、「そんなやり方は絶対に受け入れられない」とか「正しいのは絶対に自分たちなのだから、ほかのやつらの邪道など信じるな」なんて頭ごなしにいう人はいなくなるだろう。これじゃあ、宗教だよ。あ、これって、フライの人にもいえることですね。

(2003.2.18)

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