コラム004「行き詰まり」

 


 私は現在、フライフィッシングに行き詰まっている。といっても自分では、なにをいまさら、という気もする。もうとっくの昔から行き詰まっているじゃないか、という自覚があるからだ。どんなことも続けていれば、やがて倦怠感を覚えるにはちがいないのだろうが、フライフィッシングにのめり込んでいった頃にいつも感じていられたときめきとは、特にこの数年、無縁になった。
 振り返ってみると、初心者を脱してからはただひたすら、まとわりついてくるマンネリ感を振り払おうとして四苦八苦してきただけだったような気さえする。いやしかし、そんなはずはない。第一、あれだけ熱中しておいてそんなことをいったらフライフィッシングに対して失礼である。それじゃあまるで、さんざん相手を引っ張りまわして遊んでおいて、自分がすこし飽きてきたことに気づいたからといって「もう好きじゃないんだ」などと平気で言い放つ自己中男とどこも変わらないことになってしまう。
 いまさら、私はフライフィッシングと別れるつもりなどない。ただ、ひとつ確信を持っていえることは、キャリアを積んでいくのに比例して、行き詰まるたびに、なかなかそのマンネリ感を振り払えなくなってきたということだ。こんなやり方を試してみても面白そうだな、とか、こんどはひとつこれにチャレンジしてみるか、というように、次の方向を見つけて再びフライフィッシングが新鮮に感じられるまでに、より時間がかかるようになってきたのである。はじめはそんなのは、せいぜい次の釣行までの一週間程度だったような気がする。それがいつのまにか一ヶ月となり、半年となり、とうとう一年を越えてきた。長くなればなるほど、閉塞感ゆえの息苦しさのようなものをいつも感じるようになり、逃れたくなった。しかしどうすればいいのか、自分ではなかなかわからなかった。
「俺は、もうこれ以上上手くならないんじゃないか」というようなことは、いままでに何度思ったかしれない。努力をしなくなったせいもあって、近年キャスティングなどは進歩どころかむしろ後退しているのだ。
 行き詰まりを感じるのは、このように決まって自分の進歩が止まってしまったときで、新しい発見や変化がないから、こんなこといつまで繰り返していてもしょうがないじゃないかとなる。いわば精神的なスランプともいえる。
 マンネリなら、すこし休んでみたらどうか、と考えてもみた。見慣れた顔も、しばらく旅に出て時間を置けば幾分か新鮮に見えるという道理だ。いやもしかすると、旅から戻ったときにその良さを見直すだけでなく、更にまた新しい顔が見えるかもしれない。もうかなり以前にそのことに気づき、繰り返し考えてもきたのだが、なかなか休むことができない。釣りにいくのをやめられなかった。
 あるとき、こんなことを考えた。自分はただ欲が深いだけではないのか。釣りが好きだから、楽しいから釣りにいく→上手くなる→たくさん釣れる、大物が釣れる、スレた魚が釣れる→ますます楽しくなる。こうやって、自分は際限なく、より大きな喜びや感動を得ることに執着してきたのではないのか。しかし、当然のことながら、このねずみ講式快楽無限大化計画は行き詰まってしまったのであった。
 考えるに、そこにはただ欲があるだけだった。それはまるで、常に利益を極大化することが求められる株式上場企業のようだった。私の行き詰まりは、急成長してきた新興企業が、業務純益が伸び悩んでもさらに成長を維持するために、新たな儲け方を模索して苦悩しているようなものだった。私はこれまでに、低成長路線を受け入れることができなかったのだ。それは、とりもなおさず自分の深すぎる欲に苦しんでいるということにちがいなかった。
 そのような心当たりは十分すぎるくらいにあった。もうこの何年もの間、フライフィッシングは私にとって「仕事」に近かった。実際にそれで金を稼いで生活しているわけではないけれども、リクリエーション本来の目的である気晴らしの部分など、いつしかどこかへ追いやってしまっていて、むしろ目標や到達点を見つけてそこへいくことを自分に課すところなど、まさに仕事そのものだったといっていい。
 それに気づかせてくれたのは、ふたりの息子だった。

 父親である私には、母親と違って、自分の子供が世に生まれ出てきたという実感はひどく薄かった。ところが、子供が立ち、歩き、話すようになるにつれて、こいつらを導いてやらねば、という使命感にも似た欲求が自分の中に湧き上がってくるのを感じた。まあ、すべての父親がそうなのかはわからない。しかし自分には、なにかを伝えたり教えたりすることで喜びを感じられる部分があるのだと再確認した。

 親バカの父は、子供を外へ連れ出して社会を見聞させようとする。そこで自分こそが、いままで縁がなかったり、すっかり遠ざかり忘れていた社会の一部分に出会い、感動したり、驚いたりした。こうして、フライフィッシングの世界に閉じこもっていた私も、すこしずつ自分の偏狭な視野を自覚することとなった。すべてフライフィッシングのために振り向けられていた余暇の時間を、すこしずつ子供のために振り向けるようになると、否応なくそれまで関心を持たなかった世界が見えてきた。
 子供が幼稚園の頃までは、完全な上下関係の元に、こちらが保護し、教える役だった。しかし、子供が成長するにつれ、それも変わっていく。いまの子供は運動不足になりやすい環境にあるから、私は子供たちをできるだけ野外へ連れ出すように心がけた。散歩、水泳、ハイキング、サイクリング、釣り、スキー、キャンプなどなど、そこにはまだ上下の教え教えられる関係が残っていたが、いつのまにか自分もいっしょになって学んだり、楽しんだりしていることに気がついた。おそらくそのうち、子供たちが手を離れていくまでに、こちらの方が教えてもらうという場面も何度も経験しそうな気がしている。
 フライフィッシングを子供に教えようと試みたこともあった。しかし、二度目で中止しした。フライフィッシングというのは、つくづく大人の遊びだと思ったからだ。洞察の先にある結果への執着、それを手に入れるための忍耐など、幼い子供には持ち得ないものだ。フライフィッシングを楽しむためには、その特性やゲーム性というものを理解し、そのルールに則った方法で釣りたいという意志(執着)を持ち、またそのルールに則った方法で釣ることに喜びを見出せなくてはならないらしい。いくら親のこだわりを押し付けたところで、いずれ拒絶されるのが落ちだと感じた。
 子供はもっと素直でシンプルだ。いつも単純に楽しいことを捜しているのである。それも単調ならすぐに飽きてしまうという厄介な存在である。それがわかったのは、シンプルなウキ釣りをしたときだった。近場へ出かけていって、ハゼやブルーギルなどを釣ってみると、子供にはわかりやすく、よく釣れることが肝心だということがよくわかった。いずれフライフィッシングを教えるにしても、まず最初に釣りそれ自体のおもしろさを知っているにこしたことはない。
 一方私も、何十年ぶりかに袖鉤やトウガラシウキ、振り出し竿を手に取ってみると、これが新鮮だった。ウキの状態ひとつで水中の様子を感じ取る、シンプルな仕掛けゆえの奥深さが感じられ、これはこれで夢中になってしまった。これまでは私もときどきインジケーターのアタリを取る釣りがしたいなどと、止水のマス釣り場に出かけていたが、トウガラシウキの釣りも、それに負けないくらいにおもしろいではないか。第一金がかからない。多少の餌代はかかるが、入漁料は無料か、取られたとしても格安である。子供たちも、そしていまや私も、マス釣り場で一日釣るのは飽きてしまう。それに引き換え近場の雑魚釣りは、気軽に出かけられて、ちょっと二、三時間釣りたいときなど、まさに絶好の遊びといっていい。
 ずっとフライ馬鹿を通してきた私にとって、フライフィッシングと同じくらいにおもしろいことがこんなにたくさんあるということは、かなり驚きを持った発見だった。ただ、そのどれかに30年間没頭できるかというと、これには自信がなかった。フライフィッシングは、やはり偉大なスポーツである。そう感じ入ると同時に、行き詰まってしまった自分は、分不相応に「道」を極めようとして力みすぎていたのではないかと思った。そしてようやく、力を抜いてみる気になったのだった。
 ここ数年、たまには家でゆっくり休みたいなと思っていても、自分に鞭打って釣りにいっていた。釣りに行くのが嫌だったり、釣り場にいることが苦痛に感じられることがあった。そんな馬鹿なことがあるかと思われるかもしれないが、ほんとうだ。解禁期間中の休日に、釣り場にいない自分が許せなかったのである。ほとんどビョーキに近い。
 走ることをやめて、ゆっくり歩きながらフライフィッシングをしてみてわかったことがある。自分は、フライフィッシングにプライドをかけて、いままでずっと競争してきたということだ。フライフィッシングでは人に負けたくない、という青年期に抱いた強い思いが、意識レベルからは消えても、いつまでも心のどこかに居座っていたようだ。競争している限り、釣りを休むわけにいかなかった。競争なら苦しいに決まっている。それに気がついて、俺は下りたと思えるようになるまでが長かった。
 そうして私は、ただもう子供のように、楽しいと感じるままに釣りをしようと考えるようになった。皮肉なことに、釣り場に行く回数が減ると、特別に目新しいことなどなくてもフライフィッシングが楽しいと感じられるようになった。

(2004.1.23)

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