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レイルロード・ランチ
ウエスト・イエローストーンの町からラスト・チャンスまでは、37マイルほどの道のりがある。メートル表示にすると約60キロ。ふつうに運転して40分かかるが、アメリカという国の尺度でいけば、すこしも長い距離ではない。ひとっ走り隣町まで、という感覚だ。 このあたりは、モンタナ、アイダホ、ワイオミングの州境が接している。北アメリカの自然を残した、すばらしい景観を誇るイエローストーン国立公園は、ほぼワイオミング州に収まっている。ぼくらが投宿したウエスト・イエローストーンは、国立公園の西の入り口に接するリゾート地で、観光拠点になる町だが、ここはモンタナ州だ。この町からハイウェイ20号線を西に向かって走っていくと、20分もしないうちにアイダホ州に足を踏み入れることになる。 アイダホ・モンタナの州境は、ちょっと険しい丘というかんじだ。見たところとてもそんな印象は受けないが、このあたりの州境は北米大陸の分水嶺になっている。つきなみないい方をすれば、アイダホ側に落ちた雨は太平洋へと流れ落ち、モンタナに降った雨は大西洋へと達するのである。分水嶺だからといって、日本の谷川岳あたりの山を想像してしまうと、なんだか感動的であってすこし物足りないような、へんな気分にさせられる。 往きの飛行機から見たところ、イエローストーンは、例えば八ヶ岳山麓あたりを高原と呼ぶのがはずかしくなるくらいスケールのケタが違うダダッぴろい高原なのだとわかった。ロッキー山脈といっても、一口にそう呼べないほどのスケールの大きさと多様性を持っていて、出発前の熱帯夜に、なかなか寝つけないウトウト状態の中での夢想は見事に裏切られた。ギザギザの岩山など、まわりに見あたらないのである。 イエローストーンから北へ、つまりモンタナ側へ下っていくと、それらしい山や峡谷、曲がりくねった道もあるのだが、アイダホ側は、なだらかな平原や針葉樹林が続いている。州境を越えると、すぐにヘンリーズ・レイクに出会う。ヘンリーズ・フォーク川の水源である。“ヘンリーズ・レイク・ニンフ”という毛鉤があるように、ここもマスの好釣り場として有名だ。湖は、ゆるやかな山や丘に抱かれていて、やさしい女性的な景色が広がっている。“ヘンリー”という名は、1810年に白人で初めてこの地へ足を踏み入れた罠師の頭領が、自分の名前をつけたのだそうだ。 峠を下ってきた道は南へ向きを変え、ほぼまっすぐになる。ヘンリーズ・レイク平原を突っ切って、針葉樹林帯に入り、いくつかのアップダウンを越えて、いくつめかの下り坂を降りていくと、アイランド・パーク貯水池を経てボックス・キャニオンを抜けてきたヘンリーズフォークの流れが、右からぐっと近づいてくる。 このあたりまでくると、ヘンリーズフォークは、たくさんのフライフィッシャーマンがこれぞヘンリーズフォークとイメージするままに、広い川幅をたおやかに、滑るように流れている。遥か太平洋を隔てた島国からやってきたフライフィッシャーマンたちも、噂に聞いたその姿に高揚を押さえきれなくなってしまう。 脇見をしながらドライブしていくと、すぐにガソリンスタンド1軒と釣り道具屋3軒、あとは忘れてしまったが、みやげ物屋や食料品や雑貨を扱う店が全部あわせて10軒あるかないかが、道路に面して並んでいるところにさしかかる。ここがラスト・チャンスである。町と呼ぶには小さすぎるところだ。クルマでやってくる観光旅行者には、ただの通過点にしかならないだろう。しかし、ここにはとても惹きつけられるものがあった。それはもちろん、目の前をヘンリーズフォークが流れているからであるが、その名によるところも大きい。 “ラスト・チャンス!” 小さな声でつぶやいてみる。英語らしく、チューインガムを噛んだときのような口ぶりで。どこか釣り人の心をそそる響きがあるじゃないか。はかない望みをつなげそうな、それでいて切羽詰ったような気分にさせられるのだ。ここに着くのはいつも朝だった。夏の太陽がまだ昇りきらない、キュンと冷えた空気の中に降り立つと、気持ちが引き締まって、きまって軽い緊張を覚えた。 3軒の釣り道具屋の中の1軒に“ヘンリーズフォーク・アングラー”という店がある。日本にも何度か紹介されたが、マイク・ローソンというフライフィッシャーマンがやっている店だ。ぼくらもそこに寄ることにした。アイダホ州のライセンスを買うのと、釣り情報を聞こうというのだ。店の中にはマイクと奥さんがいて、ぼくらが当たりバリや情報を仕入れていると、あとから背の高い青年が遅刻出勤してきた。どうやら寝坊らしい。みんながネボ助というわけではないだろうが、このあたりのショップには若い店員や専属のガイドが必ず何人かはいるようだ。そうやってたくさんの人たちがフライフィッシングにかかわって生活しているのは、このあたりの釣り場が、質・量ともに豊かだからだ。
ヘンリーズフォークはラスト・チャンスを過ぎると、一度大きく蛇行してから“ハリマン・ステートパーク”―いわばハリマン氏記念州立公園の中を流れるようになる。その右岸には27棟の丸太小屋が建っていて、上流側には牧草地が広がっている。ここが“レイルロード・ランチ”と呼ばれる放牧地だ。別に鉄道が敷かれているわけではなく、この土地の最初の所有者がユニオン・パシフィック鉄道の株主ハリマン家であった、というところからきているらしい。地元の釣り人どうしなら“ランチ”だけで通じるという。そうやって呼び慣らされるのは、釣り場として第一級で、有名でもあるからだ。 マイク・ローソンが教えてくれてのは“ランチ”から、そのすぐ下手にかけての流れだった。ぼくらは、教わったとおりに一度下流まで走って橋を渡り、右岸の砂利道を上り返してランチに隣接した駐車場まで無事にたどり着いた。あわただしく釣り仕度を整えながら腕時計に目をやると、時刻は8時30分を回っていた。 ウエスト・イエローストーンの、モーテルの近くにある釣り道具屋の若い店員はこういっていた。 ―ヘンリーズフォークも悪くないよ。まずまずのコンディションだ。 ―ソレデ、何時頃ガイイデスカ? ―朝だよ。8時半から、そうだな、11時くらいまで。“トライコ”の釣りだよ。ホワイトウイングド・ブラック。サイズは#20くらい。 ―(トライコくらい知ってるゼ。こちとらできればグリーンドレイクの7月に来たかったのさ。でも休みが取れなかったのさ。8月っていえばアンチャン、どの本見たって主役はトライコさ)アイ・ノウ・トライコ! オール・ライト。ノー・プロブレム! ―だけど、ベリー・ディフィカルト・フィッシング。ユウ・ノウ。ベイリー・ディフィクゥアルト・トゥ・フィッシュ! ―(このヤロウ。俺たちを見くびってるな。でも、ケンカ売るほど英語うまくないしな…)OK、アイ・シー。ヨクワカリマシタ。アリガトウ。 こういう、はずかしい会話だった。 駐車場の目と鼻の先を、川は流れていた。やけに埃っぽい草地の踏み跡をたどると、岩が積み重なった高いバンクに突き当たった。そこから上流を眺めると“レイルロード・ランチ”と呼ばれる釣り場の全景が見渡せた。ヘンリーズフォークは、200メートルくらいの幅に広がって流れていた。それは、思わずスーッと吸い込んだ息を止めてしばらく見惚れ、それからフッと息を吐いたあとにすがすがしさを感じてしまうような、見事な広がりだった。川の左手には牧草地が続き、対岸は針葉樹と平原だった。それらのずっとむこうに、山があった。山はゆるやかな曲線でつながっているのだが、まるで地面にはりついているように見えた。どれもこれも、風景をなんとも平べったい広いものにしていた。その平たさに比例して、空もデカかった。 このあたりは世界最大級のカルデラ地形のまん中で、そうはいっても険しい外輪山などはなく、自然に溶け込んでしまった、いわれなければ気がつかない程度の丘のような起伏に囲まれている。そのせいで湧水も豊富なのだろうし、岩はみな火山岩のようだ。その肌の荒い岩や、丈の低い水生植物や泥が組み合わさってできた小さな島が、広い流れの中に点在していた。島は川をいくつかの水路に分け、バンクを作り、流れと流れをぶつけたり、ヨレを作ったり、カーブさせたり、平坦な流れに変化をつけていた。もっとも、そんなのは釣り人しか興味を示さない種類の変化にはちがいなかった。とにかく広くて、全体的に浅い、ゆったりと流れる川なのだ。 この釣り場には午前中だけ4日間通ったのだが、きまって8時半頃になるとトライコ・スピナーの群飛が始まった。川岸に沿って、人間の頭のちょっと上あたりを、ものすごい数のスピナーが帯状になって飛び交うのだ。“雲霞のごとく”という表現があるけれども、これはまさにそれである。煙るように湧き立ってくる。 トライコは夏のカゲロウである。アメリカでは東海岸から西海岸まで、夏中ハッチが続くのだという。ただ、その小ささゆえに、生態はあまり解明されていないらしい。オスは夜ハッチするとか、盛期には生まれて5週間で羽化するとか、空中で脱皮してスピナーになるという報告もある。確実なところは、トライコの仲間は小さいこと(西部のは大きい方だそうだ)、それと、流れのゆるいところに生息していて、フリーストーンなら大きなフチ、それから止水やスプリング・クリークなどでたくさん見られるということだ。 トライコの小ささと生息環境は、マスのライズをセレクティブにする。ましてや生息数はものすごく多いから、釣り人は難しい釣りを強いられるようになる。そのために“アングラーの呪い”なんて呼ばれることもあるというが、アメリカのフライフィッシャーマンは感謝すべきだ。トライコのおかげで、夏中マスのライズは続くし、こんなに難しくておもしろい釣りが提供されるのだ。
空気が乾燥している。照りつけてくる太陽に、剥きだしの肌はたちまち焼けてしまう。しかし、ヘンリーズフォークの流れは冷たかった。水温16℃。川のあちこちに湧水があるからだ。立ち込んでいくと、その冷たさが心地いい。身体の芯が引き締まる思いだ。 トライコ・スピナーの群飛が始まると、ライズの数が目立って多くなる。滑らかな水面が不意によじれ、小さな飛沫が上がる。マスが存在をあらわにする信号が、川のあちこちから発せられる。 深く立ち込むと、水中は依然として別世界だが、境界の水面はぐっと近くなる。腰をかがめてのぞき込んでも、トライコ・スピナーは流れてこなかった。スピナーの群飛とマスのライズは直接関係ないようだ。そのかわり、小さなダンがたくさん水に乗っている。中にはトライコもいるのだろうが、多くはブルーダンやオリーブと呼ばれる色合いの#18以下のヤツで、コカゲロウやマダラカゲロウの仲間だろう。しばらくすると、これにマダラ模様のウイングを持つ、やや大きめのキャリベイティスのスピナーが混じるようになる。それから、だいぶ陽が高くなったころ、トライコ・スピナーがやってくる。これがスゴイときは、水面を10センチ間隔くらいで流れていくのだ。 水面だけを見ていても、なにかが一日中流れているような川だ。けれど、流下生物の量は、昼になると急に減少した。ライズも散発になった。それでも午前だけ釣りをすれば、この川の豊かさを知るには余りある。湧水が水温を安定させ、水底を覆いつくす水草が、種・量ともにどれだけの水生生物を育んでいることか。このあたりのヘンリーズフォークが“フライフィッシングの天国”と呼ばれる一因はここにある。そして、浅くて平らな、フライフィッシングのために誂えたような流れだ。フライの道具でやるのが一番楽しめると確信できる流れ。これが“天国”のもうひとつの顔だ。 特にレイルロード・ランチの流れはいい。川が、コップの水をこぼしたように左右へあふれだすのだ。比較的流速のある、水草がゆっくり揺れているところの川底は、小砂利が敷きつめられ、思ったよりしっかりしている。深さは、どこも概ね膝上から腰下あたりまでで、カーブやバンクなどの例外的な深場を除けば、自由に、縦横無尽に歩いていけるのだ。 マスのライズは、はじまりから急に盛り上がり、30分もしないうちに一度目のピークに達するように見える。そのあとは、流下するカゲロウの量や形態の変化にあわせて、大波小波がやってくる。はじめのうちは熱狂してしまい、ライズが集まる流れの筋にマッチ・フライを乗せ、片っ端から掛けてやろうという意気込みで釣った。上流からドラッグフリーで毛鉤を送り込めば、予想していたよりも簡単に、マスは食いついてきた。これが“ベリー・ディフィカルト・フィッシング”なんて、ぼくらが見くびられたのか、アメリカ人はよほど釣りがヘタなのだろう。そうたかをくくって、釣りまくった。ところが、釣れてくるのは30センチ以下のマスばかりだった。 ―チョット待てよ。 そのころには興奮も一段落していたから、ライズを観察してみて、すぐにその理由に気がついた。流れのゆるい深みでライズしているのはホワイトフィッシュ。流れが狭まったり、ぶつかったり、水草がせり上がってきて水面が乱れている、比較的はっきりした浅いポイントでまとまってライズするのは小型のマスだ。大きめのマスは、適度な流速がある、深めの流れにいた。バンクの横の流れだとか、水面まで水草がきている、そのすぐ脇の深い流れだとか、ちょっとした変化のあるところが狙い目のようだった。そしてライズそのものが、マスの大きさを見極めるなによりの目安になった。大きなマスのライズに派手さはない。水面がポクンとよじれると、そのあとにゆっくり大きくリングが広がるようなライズ。静かだけれども、直感的にどこか力強さを感じられるのが、大きなマスなのだ。 ライズの3分の2以上が30センチ以下のマスのようだった。そのため、大きそうなライズを探して歩かなければならなかった。これが水草に足を取られるので、けっこう重労働だ。腰近くまで入れば流れも重い。足元に気を取られていて、近くのライズに気づかなかったり、深みに踏み込んだり、それならまだいいけれど、ズンズン下流に進んでいって、気配に目を上げると、前方の川のまん中に、水草をはんでいるらしい仕草で巨大な雄のムース佇んでいて、ドキッとさせられたこともあった。このあたりは、そこかしこに野生動物がいるから、動物園しか知らない、都会にスポイルされた人間は心臓によくない。離れていても、大きな野生動物に肌で接するのは、未体験の刺激があり、突然現れた怪物に遭遇するのとそう変わりない。釣りに夢中になっているとき、突如飛来してきたペリカンの、頭上からのヒューという風切音に、その大きさともども呆然と見上げてしまうこともあった。 そうやって人知れぬ苦労をしながら川の中を動きまわれば、それはそれでうまい具合に、遠くから大きなマスのライズを発見することができた。
アプローチの、はじめの、ライズから20メートルくらいまでは、気がはやってしまい、水音を引きずるくらいのスピードで近づいていった。それでも遠目には、遅々とした動きにしか写らないだろう。しかし、そこからの一歩は、なおのこと遅くしなければならない。このもどかしさは、なんとも表現しずらい。苛立ちや歯痒さや軽い怒りのような感情がその主なものだが、その中にわずかながら幸福感が占めているのを認めざるをえない。イライラ、カリカリしながらも、顔には薄笑いが浮かんできてしまうような、オレはもしかしたらマゾ気があるのかと心配になるような、複雑な心境に陥る。 ライズから20メートル以内は、慎重に行動しなければならないエリアなのだ。いや実際のところ、10メートルまでは雑に近づいてもマスはライズを止めないだろう。だが、マスが安心してライズしているのと、うすうす感づいているのとでは、釣れる可能性に大きな差があるように思えるのだ。どうせなら万全の首尾で、完璧にダマしてやろう。微塵の疑いもなく、大口開けて浮上してきたアホ面の上アゴに、バッチリ鉤を食い込ませてやろう、とたくらんでしまうのだ。 不思議なことに、なかなかライズに近寄れなかった遠くからのアプローチに較べて、警戒水域に入ってからの一歩は、ライズをグッと手前に引き寄せてくる。大物のライズ特有の、静かな迫力と、ピーンと張りつめてきた空気に、身体がギクシャクしはじめる。そのことで、意識がまだ自分の肉体とくっついているのがわかるのだ。川の上を歩けたらどんなに楽だろうかと、痛切に思ったりもする。それでもしかたないので、そんな必要などさらさらないのだが、つとめて息を殺しながら一歩二歩と進んでいく。 このライズというヤツに、どうしてこうも高ぶってしまうのか…。ライズに近づいていって釣るときには、ふだん仕事などしていて、ふと釣りに行きたいなぁ、と思うところからはじまる、漠然とした釣欲を煮つめて取りだした濃いエッセンスを味わっているようなところがある。ワインを蒸留して作るブランデーのようなものだ。ワインとブランデーのどちらにしても、それなりの味わいはある。たかだか10年ばかり毛鉤をいじくってきたぼくのワインは、ヴィンテージと呼ぶには若すぎる。チーズやパンや、そういう食物と組みあわせて味わうことはできても、酒そのものとして味わうには新しいのだ。でも、ヴィンテージ・ワインは、歳をとってから味わっても遅くないはずだ。いまは、喉を熱くして芳香を突き上げる強いブランデーに、ヘロヘロになるまで酔っ払いたいのだ。安物でもかまわないのだが、ヘンリーズフォークは、極上のブランデーを提供してくれる極上のバーなのだからタマラナイ。 自分を中心に半径15ヤード以内がぼくの射程である。これはキャスティング能力ではなく、どうにかトラブルなしに、マスのフィーディング・レーンに、ドラッグをかけずに毛鉤を送り込めそうな範囲ということだ。その境界にライズが差しかかると、気分は一段と高揚してくる。意識の一部が澄んでくる。 好んでそうなるのだが、自分が自分でなくなるような気がする。それで、はじめのうちは、あたりを見まわしてみたりもした。遠くの川の中にいる釣友の小さな影や、レイルロード・ランチのポールに巻きついたままの星条旗。どこを眺めたって、例えば自分の机の上に置いた鏡をのぞき込んで鼻毛を切っているときのような平静さなどすこしも戻ってこない。いつものことだが、意識はライズに張りついたままだ。 狩猟本能に火がついてしまっているのだ。ぼくはこの狩猟本能というヤツが人一倍強いらしい。自分を欺けるものか、早く頂点へ向かわぬかとせかされる。なにしろ本能(と信じ込んでいる)なのだから、食うこと、眠ることを個体維持のための第一の欲求としても、その次のセックスと同じくらいレベルにはあるのだ。野性から遠ざかり、歪められてはいるものの、無理に抑制されれば、よからぬ結果を招く可能性もあるのだからして、自分自身でだってそうコントロールできるものじゃない。困ったものだ。 ライズに対して、どこに立つか。あのあたりまでいけたらいいなぁ、という希望的な位置は、目星をつけてある。できればマスの上流に立ちたい。真上に立つのは無理だとしても、竿をいっぱいに伸ばせば、真上からの流れにラインを乗せられるところがいい。悪くても、ライズの真横よりやや上流から釣りたいのだ。 足元を確かめながら、目星をつけたあたりを目指してにじり寄っていく。あとはどのくらいライズまでの距離をつめられるかだ。もう、余分な動きは避けねばならない。水音も抑えて、一歩一歩、姿勢を低くして近づいていく。ライズまでどれだけ近づけるかで、この釣りの半分は決まってしまう。距離を一歩でもつめられれば、成功の確率は加速度的に増す。気づかれれば、すべてパーだ。 ―もう、このあたりでいいんじゃないか? ―いや、まだだ。もう一歩いける。 ―もう… ―まだ… 毎度毎度こんなカットウの上に立つ。こうやって自分の立つべき場所までたどり着いたころから、ぼくは自分の身体のありかがわからなくなってくる。もちろんキャスティングで腕を動かすのだが、視野の外にあるから、ちょっと事情が違ってきてしまう。 網膜のスクリーンに写る像は、横に長い楕円形をしている。写し出されるのは、前方2〜3メートルから狙いをつけたライズの先までの流れだ。ここに意識が集中してしまうから、スクリーンの外縁あたりはぼやけている。フォルスキャストをすると、フォワードキャストのループだけが画面に入り、右側から出たり入ったりする。とまあ、こんなかんじである。自分が、扇形の視界のつけ根、目の眼底あたりの、水面上1メートルに浮かぶ点になってしまったような感覚とでも表現すればいいのだろうが、実際のところ自分の存在は点にさえも感じられない。釣りへの集中が途切れるまで、自分自身の存在感はなにもないのだ。これは、本能のなせるワザなのか、集中による一種のメディテーションの効果なのか、さっぱりわからない。ひとつだけいえるのは、自分を忘れている短い時間は、とても気持ちがいいということだ。 腕を使っている感覚がないから、意識がループと直結していて、コントロールしているようだ。大物はそれほど頻繁にライズしないから、一応タイミングを計ってプレゼンテーションに移る。バックキャストを高くして、やや角度のついたラインをライズに向けて放つ。この直後、必要に応じて竿を寝かせる。ループが転がっていって、ラインからリーダーに移り、ライズの手前2メートルに差しかかる頃合を見はからって竿を立て、ラインをすこし引き戻す。すると、転がっていったループの進行が遅くなり、ライズの手前1メートルで毛鉤がフワリと波打つと、高い位置に保持したティップから先のライン全体がゆっくりと落下し、音もなく着水する。あとは竿を倒していくのだが、ライズが遠いときは、ラインをフリップして繰りだし、毛鉤を届ける。着水した仕掛けは、そのとき与えられた適度なたるみゆえにドラッグを吸収し、フィーディング・レーンを自然に落下する。外側がぼやけた楕円形の視野は、毛鉤へとグッと絞り込まれる。まるで自分が毛鉤の上に乗ってしまったような集中の頂点で、大物マスはなんの疑いもなく毛鉤を吸い込んだ…とまあ、こういうのが理想である。ところが、理想はやすやすと現実にはならないのだ。 実際には、寸前のところでターンオーバーしなかったり、風が最後の20センチのティペットを曲げてしまったり、自分をけなしたくなるようなキャスティング・ミスや、そのほか人間を完璧な存在にしようとしない諸々の事情が、100パーセントを阻むのである。 毛鉤からすぐのティペットが丸まって、U字型のまま届けられようものなら、小型のマスは別にして、大物マスは決して食いつかない。それどころか、もつれたままのリーダーや、ドラッグがかかった毛鉤が3回も頭の上を通過すると、明らかに警戒して、ライズの回数が減った。未練がましく、そんなのが5回も流れると、パッタリとライズが止むのである。 それでも、マグレという味方もあることだし、中にはひとつくらい条件が欠けても、目をつむって毛鉤に食いついてくれる奇特なマスもいるから、世の中捨てたもんじゃない。レーンからすこし外れちゃったかと思っていると、漂う小さな毛鉤が水面の盛り上がりの中に吸い込まれることもある。ゆっくり竿を立てると、バットにグッと重みが乗り、この瞬間にだけ、ぼくは絶頂を味わうことができるのだ。 ヘンリーズフォークのニジマスは、最高のファイターだった。エサの豊富な川で育ち、水温16℃というベストコンディションも手伝って、暴れ方がメチャクチャなのだ。サカナが小さかったり、ファイトが緩慢だったりすると、我を忘れているという状態からすぐに醒めてしまい、他人の視線を気にしちゃったりするのだが、ここの30センチ以上のマスは、鋭い突っ走りと、発狂してしまったのではないかと不安になってしまうような連続ジャンプで、忘我状態を引っ張ってくれるのである。 しかし、だ。ネットに収めたのは40センチまでだった。それ以上と思われるマスは、多くが鉤に掛かる以前の問題で逃げられるか、掛かったとしても“行ったっきり”の状態でリールからラインを引き出し続け、ようやく止まったかと思うと、それは水草に突っ込んで毛鉤を外された合図だった。
ヘンリーズフォークの流れに立つ杭は、とても幸せそうに見える。杭になどなりたくないという人がほとんどだろうけど、特上のブランデーに酔ったせいか、ヘンリーズフォークの杭にならなってもいいような気がした。1年間なら、流れの中の杭になって、移り変わっていく川の姿を静かに眺めてみるのもいいだろう。 昼になって、川から上がり、帰路のクルマの中から見た杭は、まるで昼寝をしているようだった。カラッと晴れ上がって、雲のカタマリがゆっくり移動していく、乾いた、バカでかい夏空の下、つい先ほどまでの騒がしいほどのニジマスのライズが落ち着いて、それでも思いだしたようにライズリング広がる流れの中。強い光線が時間の経過をやけにゆっくりと感じさせる真昼に、杭はすやすやウトウトと居眠りしているように見えるのだ。それは、流れの中に立ち込んでいるあいだずっと、心の底の方で、この景色に溶け込んで、昼寝でもしてみたいと思っていたもうひとつの願望が、ただの杭をそんなふうに見せたのかもしれなかった。 |
初出:1988年11月「フライの雑誌」第7号
フライフィッシング中毒
Copyright © 1988 Kuroishi Masahiro[黒石真宏]. All rights reserved.
最終更新日 : 2001/01/22
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