メイキング・オブ「忍野ノート・ビデオ版」

その2 ライズを撮る苦しみ

 ビデオを撮ろうと決心させてくれたシーンのひとつに、こういうのがあった。あれはたしか7月初め。自衛隊橋下流右岸側にいたぼくは、背の高くなった葦の切れ目に立っていた。すぐ下流の、葦の根元の下側がえぐれているらしく、そこに40センチ近いブラウンが隠れていた。放流ものらしく動作が鷹揚だ。ぼくの流し込むクロマダラ・スピナーに気がつくと、ゆっくりした動作で見にくるのだが、もう一息のところで食いつかない。その一部始終を目の当たりにできるので、繰り返すたびにこちらも興奮してくる。

 夕闇が迫って、かなり薄暗くなってから、そのブラウンはやっとスピナーをくわえ込んだ。やり取りをしながら、ああ、今日はおもしろい釣りをしたなと思った。その日、この一匹がとても印象に残っていた。帰りのクルマを運転しながら、これを友人にどう伝えるか考えた。手短に言葉にすると「てこずって」「スピナーで」「ちょっと大きな放流物のブラウンを釣った」ことでしかない。よほどじっくりと話を聞いてくれる人でなければ、ブラウンが何度もフライを追って現れ、食いそうで食わなかった様子の一部始終や、ましてや興奮は伝えられない、そんな気がした。

 けれども頭の中には、真上に近い角度からのそのときの映像が何度も繰り返し再生されていた。あれならビデオに撮れる。もしそれを見せられるなら、言葉なんていらないだろう。なにより自分が一番、あのシーンを保存しておいて、繰り返し見てみたいと思っているのだった。

 けれどもこの何ヶ月かあとに、ぼくはそれが苦痛を伴うことだと思い知ることになる。竿を持って劇的なライズ・シーンと向き合うのと、撮影のためにDVカムを持ってライズに臨むのとでは、天と地ほどの違いがある。この釣りをする人ならすぐに察しがつくだろう。竿を持っているなら、ただそのライズを釣ることだけを考えていればいい。納得いくまで竿を振るだけのことだ。これこそ、純然たる釣り人の思い、行動だ。

 ところが、竿を持ち、もうひとつDVカムを持っていると、内なる人格が分裂する。

 純然たる釣り人の自分がいう。

「ここはひとまず釣っておけ。こんなにおもしろい状況なんてめったにないんだから、自分の真の欲望に従えばいいんだよ」

 しかし一方に、理性派カメラマンの自分がいる。

「ここは我慢だよ。自分ではじめたことじゃないか? 言葉で伝えきれない、まさにこういう状況を誰かに伝えるためだったんじゃないか」

「バカいってんじゃねえ! 目の前においしい果実がぶら下がってるっていうのに、もたもたしてるってのはおかしいぞ。早いとこ取らなきゃ、誰かにかっさらわれるぞ!」

「じゃあ、なぜビデオカメラなんて持ち歩いてるの? わざわざ重い思いして、カッコ悪いザックまで背負ってさ。大望のためだろ。ここは我慢、ガマンだよ!」

「おいおい、もたもたしてるとライズが止んじゃうよ!!」

「おいおい、だからすぐに撮影はじめないと…三脚立てて、早く早く!!」

 まったく、いつもいつも自分が引き裂かれるような思いをしたものだ。

 どうすればいいかなんてことにはすぐに気がついた。竿かDVカムか、どちらかにすればいいのだ。実際に初めのうちは、二股をかけたためにどちらも中途半端になる、二兎を追うものは一兎をも得ず、ということが何度もあった。

 しかし、映像に残すべきシーンがいつ眼前に現れるかなんてわからない。DVカムを持ち歩かないわけにはいかないのだ。そして、それがウハウハのライズ・シーンであるなら、これまた釣らなければどうしても気持ちが収まらないのである。とても、どちらかをあきらめることなんてできない。

 しかたがないからルールを決めた。まずはビデオ撮影をする。そして、納得のいくシーンが撮影できた、そう自分に厳しく判定できたら、すぐさま釣りに切り替える。釣ったり撮ったりは絶対にしない。しかし、このルールに、すぐに純然たる釣り人の自分が従うわけがない。ぼくはしばらく、内なる戦場でふたりの自分がののしりあう苦しみを受け入れるしかなかった。

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最終更新日 : 2001/02/17 .