Thinking 2
『生生しい表現』


 
今、僕は生きています。
これを読んでくれているあなたも生きています。
家族、友達、恋人、見知らぬ人々、みんな生きています。
息を吸い、吐き、汗をかき、涙し、飲んで、食べて、おしっこをし、
うんこをし、笑って、怒って、恋愛し、そして血を循環させています。
私達は生きています。

 しかし、何故か僕が目にし、耳にする情報には
『生』を感じさせるものが少ないような気がします。
そして特に、日常に蔓延する娯楽。
テレビや雑誌に写し出される世界に強く感じるのです。

 日常、あらゆる分野で新しい技術がどんどん発明され便利になっていきます。
生活必需品はもとより、私達の労働が次第に減っていき、
今まで出来なかったことが可能になる。本当にすばらしいことが
あたりまえに過ぎていきます。去年二足歩行のロボットを見に行きました。
テレビで見るのと違い、強い感動を受けました。
微妙なバランスを保ちながら歩くロボット。
またそれを食い入るように見守る人々。その全体の熱気に感動したのです。
ロボットが歩いたところで私達の生活が便利になるわけではないのですが、
新しい技術が私達に与えるエネルギーを全身で堪能したのでした。
そして技術の進歩では娯楽の世界でもそうでしょう。
絵、映像、音楽、劇、芝居、スポーツ、ゲームなどあらゆるものに新しい技術が駆使され、それぞれ新しい表現を楽しませてもらっています。
そうです、技術だけは確実に進歩しています。
でももし本当に技術だけでは寂しいものですし、恐ろしいものでしょう。
本来の楽しみ、思想の向上が薄らいでしまっては
まったくもって意味のない技術だと思います。
これは私達の生活全体にあてはまることでしょう。

 これ以降は僕だけの考えが多くなります。

 人それぞれあるでしょうが、通常の生活で一番多くの情報を出すテレビ。
その中からは映像、絵、音楽、声、音などが目と耳にダイレクトに飛込んできます。電源さえ入れておけば画面に集中せずとも気が付けばいろいろなことを知ることが出来ます。
しかしその中で、娯楽番組はそれぞれ同じ様に見えてしまうのです。
もちろん違いはわかりますが僕の目には全ての番組が似ているのです。
それは何故か?

 
それは画面を作るCGやセットの仕業か?
 それは世間のニュースの仕業か?
 それは連続するCMの仕業か?
 それは単に生活リズム、決められた時間の仕業か?
 それは番組をまとめあげる編集の仕業か?

 いろいろ悩み、考えました。そしてそれは技術の仕業ではないだろうか。
全ての分野が便利さだけを求め、妙に全体が調和しすぎていると思うのです。
僕は専門家でもなんでもないので深くは知りませんが、
その調和からはみだしたものは面白くなく、無駄なものと判断され排除されている。
だれに植え付けられた教えか知りませんが、みな同じものをバランスよくカットしている様に見えます。ですから同じ面白さ、同じ批評、同じ流行が蔓延し全てが同じに見えてしまうのではないでしょうか?
その排除、カットされているものは何か?
それはハッキリ言って具体的には分かりません。でも現在僕がテレビや雑誌、マスコミから受ける印象は、無機質な清潔さです。その逆のもの、冒頭にのせた『生』を感じるものが少なくなっている感じを受けます。
『生』と聞くと処理をしていないもので
汚いものというイメージもあるでしょうが、
息吹を感じさせる『生』というものもあるのです。
現代の子供はこのテレビを見て育っていくのかと考えたりもします。

 娯楽とは人の心のゆとりであり、
楽しむもので楽(らく)するものではない。
新しい技術の使い方を間違え、より商業にのせるための
便利さだけに心を奪われていては一方通行の娯楽にしかならないのです。
思想や創造したものを技術にのせなければこれから先、
あらゆる芸術が衰退に向かっていくのではないでしょうか。
僕はいいかげん、面白い奇抜さを狙った斬新もどきの
間違ったバランスのよい表現は飽きてきました。

 いつの時代も無駄を排除していくことが進歩、改革でしょうが、
その時代を超えて、もう一度無駄なものとはなにか考え、
今はもっと生きた『生生しい表現』をしていきたい。

 僕は今、そう自分に言い聞かせているのです。

 H.13.2.27

Copyright 2009 Taro Tomori